『ええ、よく出来ました。小太郎殿。』その言葉が、何よりの報酬で。自分はただ、それだけで問題なかったのです。

幕間の物語(男性鯖)

——酔っ払った父親の言葉であるが。

自分はどうも、泣かない子供だったらしい。

赤ん坊の頃は母親を求めて泣くのが普通だろうに、惚けたように空を見ているのが、自分の日常だったそうだ。

父親はただ、教えるだけの男だった。

忍びの術の基礎を教え、合理を教え、常識を教えた。

だが、それでは足りない。

まったく足りない

口伝は記憶明瞭な限り正確性においては図抜けているが、遠ざかるにつれて正確性が失われる。

筆による伝達は、その時点で正確でこそあるが、精密性が掻き消えていく。

風魔が練り上げた忍術を完璧なものにするためには、絶対に忘れない存在が口伝をするのが一番だ

いいえ、と僕は首を横に振る。

四代目が現役である以上、自分が五代目ではない。

段蔵「いいえ、いいえ。

アナタはこれから、五代目となるのです。

そのために必要な忍びの術。

何もかも全て——ワタシがお教えいたします。

さあ、どうか手を。」

——それから先、大人になるまで。

僕は彼女を母と呼ぶことになった。

彼女はそう呼ぶたび、困ったように首を傾げたけれど。

僕にとって、何かを教えてくれる者こそが親なのだから。

だから、彼女を母と呼ぶべきだと思った。

忍びの時代は、終わりを告げようとしていた。

北条が滅び、天下は統一に向かっていた。

風魔もまた、自分で終わりだろうなという確信があった。

少なくとも忍群としての風魔は、ここで終わると。

段蔵「——そう、そういう時代になったのですね。」

風魔が滅びるのは口惜しい。

しかし、まだ生き残る道はある。

夜盗、盗賊に身をやつしてでも、風魔は途絶えさせない。

しかし——そうなれば。

あなたはどうするべきか。

段蔵「……問題ありません。

というより、もう動けないのです。

五代に渡って、ワタシはアナタたち風魔を見てきました。

稼働時間はとうに限界を超えていて、既に初代から四代の顔も思い出せません。

忍びの術も、手裏剣の投げ方すら記録から消えました。

今のワタシに残ったのは——

アナタの顔だけ。

なので、せめてひと思いに介錯をお願いしたいのです、他ならぬアナタに。

それでワタシは、アナタという風魔の最高傑作に最後の華を添えられる。

最強の、最後の、最高の忍者に。」

……少しだけ記憶が曖昧だ。

生前のことを全て、覚えている訳ではない。

——ああ。

この後、僕はどうしたんだっけか——。

——あの時、どうしたか思い出せなかった。

介錯をできたのか、できなかったのか。

やれたはずだ、という確信。

やれなかった、という無念。

どちらも胸に突き刺さっている——

段蔵「——母上、という呼び名はどうしても慣れません。

そう呼ばれるたびに、心のどこかで何かが軋むのです。

だからワタシは油を差し続けました。

いつか、その呼び方が自然に聞こえるのではないか、そう思えたからです。

母親——。

そう呼ばれるようなことを、ワタシは何かしたのだろうか?

ワタシは先代、先々代と同じように、ただひたすら忍びの術を教えただけ。

昨日よりも速く、昨日よりも高く、

昨日よりも賢く、昨日よりも強く。

ワタシは、彼をそうするためだけの絡繰(いきもの)なのです。

稼働限界期を超えて以降、そう自らを定めました。

親と呼ばれる資格などありません。」

???「——いいえ。

それでいいのです。

それで十分なのです。

僕たちの目的はただ一つ。

風魔を完成させること。

だから、それを卑下しないでください。

あなたは、やれること全てをやってくれた。

そして何より。

僕は一つ、術を練り上げる度にあなたはこう言った。

『ええ、よく出来ました。小太郎殿。』

——その言葉が、何よりの報酬で。

自分はただ、それだけで問題なかったのです。

その言葉には情があった。

たとえ雫の一滴だとしてもそれで十分だった。

むしろ、それ以上は要らなかった。

満たされてしまえば、きっと自分は完成しない。

だから、わずかな情に餓えるくらいでちょうどいい。」

段蔵「そうです、その通りです。

だからどうか、ワタシも満たさないでください。

アナタはワタシを満たしてしまうのです。

それは忍びに不要な感情です。

——ああ、でも。

もしかすると、ワタシはもう、とっくに。

用済みで、お払い箱で、瓦落多(ガラクタ)だったのだろうか。

だから、こんな些細なことで満たされてしまうのでしょうか。」